本を読む そして怪しい夢を見た話

令和3年にもなってようやく騎士団長殺しを読み始めた。騎士団長殺しは阪急梅田の2階にある本屋で景気よく宣伝していた本で、村上春樹の割と新しい著書でもある(ですよね?)。最初に触れた村上春樹の文章は恐らくレキシントンの幽霊で、国語の教科書に載っていたのをそれと知らずに読んでいたことを二十歳を迎えてから知った。彼の著書はある程度読んでいて、それなりの冊数が家の本棚に並んでいる(悲しいことにその全てが文庫本である)。比較的新しい作品は図書館で借りたり電子書籍で買ったりしているが、あまり頻繁に読み直す作品ではないにも関わらず、あの黄色い背表紙の文庫本は我が家の本棚の一番手の届きやすいところに綺麗に並べられている。

村上春樹といえば古い友人である市原と一緒に川越を歩いていたとき、ちょうど向こう側からかつて隣の女子校に通っていたNと鉢合わせし、彼女にリュックに入れていた村上春樹の本を取り上げられ「ハルキストだ!」と揶揄されたのを思い出す。また、何度買っても誰かに渡してしまう「世界の終わりとハートボイルドワンダーランド」は現状手元にないし、この前図書館で借りた1Q84は読まずに返却期限を迎えた。実はようやくこの前「羊をめぐる冒険」を読んだんです。まだまだ読めてない作品は多いはず。

村上春樹の本を読んでいたからか、中村文則の「教団R」を一息で読み終えたから、その両方が原因か。総務部長付という微妙な役職に就いた男が、ただひたすら工場の片隅にあるお社を管理するだけの夢を見た。実際多くの工場にはお社があって、年に何回か神主みたいな人が安全祈願をしている。連続無災害記録をどれだけ伸ばせるかが工場長の評価にも繋がるわけで、神主的な業務を生業とする総務部員がいてもおかしくないだろう(実際、前職の某工場では事故が起こりすぎたため工場長が2年で閑職に飛ばされた)。

自分でも創作ができたら幸せだろうと考える。創作のために生まれてきたような後輩がいて、その姿や考え方、彼の書いた文章を読む限り自分にはとても不可能なことのように思える。読みやすい文章を書くことは難しく、かつ読者を楽しませる文章というのは何を食ったら書けるのか。幼少時代からのインプットとアウトプットの量と質だろう。意気込みもなく、プロットも書かず、ただ頭に浮かんだことを(多少のアルコールを触媒として)打ち込むだけの文章しか生み出せないのは悲しいことよ。特に改善しようとも思わないのでずっと中学生みたいな文章しか書けずに死ぬんだろう。

小説を読むこと、新書を読むこと、雑誌を読むこと、それぞれ目的は違いながらもいずれも必要な行為だと考えている。知識や価値観をアップデートするには最新の新書が必要で、トレンドを追いかけたり気軽に写真と見出しを楽しむには雑誌がうってつけだ。小説を読むためには時間と気合と何らかの起爆剤が必要で、けれど一度火がついたら時間を忘れて読み続けられるのがいい。人間の人生はあまりにも短くて、その短い人生の途中で直接体験できないことや知り得ないことは映画やドラマ、小説を通して間接的に身に付けておきたい。映画やドラマと違って自分の好きな箇所で中断でき、ときには少し前まで戻って読み返すこともできるし、その上場所や時間を問わずに楽しめる娯楽として小説はあまりにも完成されている。

普通に生きていたら絶対に触れられない、ひょっとして存在すら知り得ない別の世界を垣間見ることができる小説ってのはもう素晴らしいもんですよ。何歳だって構わない、小説は人生に必要不可欠なもので、別に10代が官能小説読んだっていいし、80代がラノベ読んだっていいんですよ。自分の読みたいものを読むべきだし、ときには友人知人の読んだ本を本屋や図書館で探して読んでみるのも立派なコミュニケーションですよ。多くの人の身体を経由して精錬され、紙という媒体にわざわざ印刷された文章を読む。これはとっても価値のあることだと思うんです。

幸いこの国には図書館というタダで本が読める素晴らしい施設がある。仕事帰りや休日でもいい、自分の住んでいる市町村の図書館へ行って、青い鳥文庫でもいい、ちょっと昔に流行って3冊も4冊も並んでいる同じタイトルの小説でもいい、騙されたと思って借りてみて欲しい。それで夕飯と風呂を終え、とりあえずスマホはベッドの近くで充電しておいて、机に置かれた本と向き合って欲しい。読み進められそうになかったらKindleの雑誌でもよいので、とりあえず本を読んで欲しい。

f:id:osakajazzlife:20210221004458j:plain

部屋で寿司を炙る 今回のエントリとは何も関係がない