ヒット

午後から腹の調子が悪くなった。何度も紅茶を飲むのが原因なのは知っているし、16時を過ぎてから菓子パンを食べるのだって身体に悪いと知っている。けれど喉は乾くし腹は減る。その日は定時に会社を飛び出し、駅へ向かうバスに乗るため敷地内のバス停へ急いだ。先月からぼくは駅から離れたところにある工場に勤めている。駅から工場へはアクセスが悪く、最寄駅からは工場へ向かうバスが10分ごとに出ているし、同じように10分ごとに工場から駅へ向かうバスが工場を出ている。工場のあちこちを経由し、あちこちの労働者を乗せた白いバスが国道を横断し駅へ向かう。

乗ろうとしていたバスが目の前で発ってしまい、仕方ないので工場の周りを歩いて時間をつぶすことにした。普段とは違う門から外へ出てコンビニへ向かう。久しぶりのコンビニは暗闇の中で煌々と輝いていてどこか落ち着かず、何を買おうとしたか思い出せなかった。何も買わずにコンビニから出ると会社のバスが国道へと続く長い渋滞に巻き込まれているのが見えた。この辺りは高い建物が無く、店も少ないので街灯の明かりを除けば18時にはもう真っ暗になる。国道沿いのオレンジ色の街灯と、少し離れたところにあるラーメン屋やうどん屋マクドナルドの看板の明かりがぼんやりと見える。

クリーム色の歩道橋をくぐり抜け、国道沿いに北へ向かった。何ブロックか歩いた先には寂れたバッティングセンターがあった。隣のコンビニには広い駐車場があって、仕事帰りのサラリーマンや高校生と思しき集団、それにカラフルな軽自動車が何台も集まっていた。そのバッティングセンターは対照的に3台しか停められない小さな駐車場と煙草の灰皿があり、どこかの実業団のポスターが貼られていた。久しくバットを振っていなかったことを思い出し、扉を開けて待合室へ足を踏み入れた。

高校生か大学生くらいの青年が驚いたようにこちらを振り向き、慌てて管理人室へ戻っていった。待合室でバット片手にスマホを触っていたのを見られたのが気恥ずかしかったのか、管理人室の扉は閉じられたままでこちらから中の様子を窺い知ることはできなかった。壁にはホームランを打ったであろう人の名前と日付が張り出されていて、そこに書かれている人の名前にはいずれも見覚えがなかった。扉を開けてネットをくぐり打席に向かう。20球で200円というお手軽な値段に少々驚き、まずは200円を投入した。

何度も何度もバットを振り、すぐに左の手のひらと右肩を痛めた。20球のうち気持ちよく飛んだのは一回もなく、悔しくて再び200円を積んだ。打つ瞬間に力を入れるとよいと誰かに聞いたことがあるが、実践するのはとても難しい。自分のイメージしたとおりにバットが振れている気がしない上、こんな細い棒で小さな球を叩いて何が楽しいんだろうと考えてしまう。2回目の20球も終わりに差し掛かったところで、キン、と音を立てて白球が遠くまで飛んでいった。つい嬉しくて周りを見回すもバッティングセンターには自分と管理人室の青年だけで、今のヒットを目撃した人は誰もいなかった。余韻に浸る間もなく次の球が飛んできて、あっという間に400円は小さな機械に吸い込まれていった。

一回だけど遠くまで飛ばしたぞ、という満足感ともっと飛ばしてやりたいという挑戦心が芽生えた。しかしこれ以上バットを振ると翌日に響くことは経験上知っていた。心地よい違和感を右肩に覚えながらジャケットを羽織り、待合室へ戻ると先程の青年がバットを振っていた。なかなか難しいですね、コツとかあるんですかと聞いた。数をこなすことですかねと彼は恥ずかしそうに言った。そりゃそうですよね、また練習しに来ますね。そう彼に伝えバッティングセンターを後にした。バッティングセンターから数十メートル歩くとそこは街灯もない静かな住宅地で、片側一車線の狭い道路が曲がりくねってどこかへ続いていた。その日はそのまま家に帰り、普段より時間をかけて湯船に浸った。また近いうちにバッティングセンターへ行ってみよう。自分がバットを振る姿を記録し、ヒットを打てるようになろう。