ライダースハウスで聞いた話

前職ではどこに泊まっても一律で宿泊費と食費が「出張手当」として支給されていた。レンズに狂っていた僕は家計への負担を減らすべく、各地のゲストハウスや安宿を大いに活用しながら移動せざるを得なかったが、気づけば各地の宿を目的に出張を組んでいたし、言ってしまえば少し怪しい宿に泊まることが(個人的な)出張の目的にもなっていた。
今では考えられないことだが毎週少なくとも一日は外泊し、多い時には三泊四日で地方を巡業していた。基本的に出張では新幹線や飛行機を使うことが多く、簡単な打ち合わせで終わるような出張以外では僕はスーツケースを選んでいた。以前出先でスーツケースが壊れ、慌てて買った十泊くらいできそうなのを今でも使っている。そんな彼も普段は蓋を全開にされてベッドの下で眠っており、さらに引越してきてからはただの一度も日の目を見ていない。とにかく僕にはこの黒くて巨大なスーツケースを連れて、日本各地のゲストハウスを転々としていた時期があった。
どのゲストハウスでも(一人ベッドに腰掛けてスマホを弄る人を除いて)宿泊者はなんとなく談話室に集い、思い思いの場所に腰掛けながら年長者だったり歴戦の旅人の話に耳を傾けることが多い。場所や国籍によらず、どのゲストハウスでも似たような光景が見られるのは興味深い。きっと一人でゲストハウスに泊まるような人種はそういうことを好むのだろう。もっとも階段の踊り場も同じように談話室的な機能を有しており、煙草を吸いながら旅の目的や人生の意味など、ここでは談話室よりも個人的な、そして深いようで浅い話が好まれる傾向にある。
前置きが長くなったが、数年前にいわゆるライダーハウスに泊まったときに聞いた話を書き残しておきたい。先日荷物を整理しているときに発見した当時の手帳を読み返し、記憶の片隅へ追いやられていた記憶が蘇った。細かい点は不確かかもしれないが、話の大筋は間違っていないはずだ。以降が彼の語ってくれた物語になる。
 
当時彼が住んでいた家から最寄りのバス停までは歩いて一〇分くらいで、バス停から家までのちょうど中間地点にその電話ボックスは建っていた(彼曰くどこにでもあるような普通の電話ボックスだそう)。仕事で遅くなったある日、その電話ボックスの中の受話器が外れていることに気づいた。彼は気に留めることなく家に帰り、翌日普段通りに出勤した。彼はそれから何回か「受話器が外れている公衆電話」を発見し、深く考えずに受話器をもとの位置に掛け直していた。
しかしある日、彼が普段どおりに受話器をフックに戻したところ、一〇円玉が何枚か釣銭口に落ちる音がした。つまり彼が受話器をフックに掛けるその瞬間まで、その電話は誰かへ通じていたことを意味する。想定外の事態に彼は驚いたが、その日もいつも通りに過し翌朝も普段通りに出社した。
以前は気にならなかったその電話ボックスが、いつのまにか彼の中で気がかりな存在へと変化し始めた。目にする直前まで忘れていても、気づけば目線は電話ボックスへと向かい、残念ながら多くの場合受話器は外れた状態で彼の帰りを待っていた。あるときから彼は少し遠回りをして帰るようになり、また彼自身の仕事の負荷が増えたため、いつしか電話ボックスの存在は頭から消えていった(彼は建築資材の営業マンだったらしい)。
ある日彼は出張かなにかの影響で、普段より数時間早く最寄りのバス停に到着した。その日は早く帰れるという高揚感から、彼は例の電話ボックスの秘密を探ってみようという気になった。家までの最短ルートを歩き、すぐに目的の電話ボックスが見えてきた。幸か不幸か受話器はフックから外れており、彼はフックに戻す前にふと思いつき、自分の耳に受話器を当ててみた。
受話器からは何も聞こえてこない。話しかけても返事はなく、数十秒も経たないうちに電話は切れた。ただの悪戯だろうと判断し彼は受話器をフックに戻した。何かがか釣銭口に落ちる音がしたので確かめてみると、予想した通り、数枚の一〇円玉が入っていた。深く考えずに彼はその釣銭をポケットへ入れ、普段通りに風呂に入り、飯を食った。
二〇時を回った頃、珍しいことに彼の自宅の電話が鳴り出した。彼はやや躊躇しながら受話器を耳に当てた。客先〜上司経由のクレームかと身構えたが、幸いにして上司からの怒号が飛んでくることはなく、受話器からは誰の声も聞こえなかった。安堵しすぐに切ろうとしたが、何かが気になり彼は受話器を伏せたまま電話ボックスへ向かった。数分走ったところにあるその電話ボックスの受話器は予想通りフックから外れ、まるでつい先程まで誰かが使っていたかのように受話器はわずかに揺れていた。
衝動的に受話器をフックへ戻すと、ちゃりんちゃりんと小銭が落ちる音がした。彼は一目散に家へ向かい、掛かってきた電話が通じているか切れているかを確認せずに、一気に電話線を引っこ抜いた。そのあと彼はすぐにその家を引き払い、別の路線の家へ引越したのだという。

あの時は怖くていろいろと調べる余裕がなかったが、今ならもっといろいろと確認したかったと彼は言った。果たして帰り道に電話ボックスから出てきた釣銭はどこへ行ったのか、実際にあの電話ボックスから自宅に電話は通じていたのか、今となっては確認する手立てはない。この出来事がショックだったのか、彼は引越してから自宅に回線は引かず、携帯電話の番号で通しているのだという。携帯なら誰からかかってくるかすぐ分かるし、知らない番号であれば出なければいい。
そう笑う彼を見て、僕は自宅に固定回線なんて絶対に引くまいと心に誓った。これは大阪から来た四〇歳くらいの男性から聞いた話で、酒に酔った彼が本当のことを言っていたのか、それともただ僕を怖がらせようとしていたのかは確かめようがない。
しかしこういう話は一度聞いたらなかなか忘れられないし、今後しばらくは電話ボックスを見るたびにこの話を思い出すだろう。オカルトチックな話ってじわじわ効いてくるから嫌いだ。どうか語られていないだけで幸せなオチが存在しますように。